日本の木造建築は太い材でつくられていた

日本の木造建築は太い材でつくられていた

日本の木造建築は太い材でつくられていた

『渋沢栄一 in パリ万博』(NHK BSプレミアム)という番組で、日本からの出展物の中に、昆虫標本と丸太材があったことを知り、強い衝撃を受けました。

渋沢が随行したのは、第2回の1867年ですから、おそらく日本の寺社・城郭・民家建築の意匠や構造を目にしていた駐日公使のレオン・ロッシュらが、欧米の木造建築との差異性を探るべく、その素材である丸太を求めたのでしょう。

黒川哲郎は、『日本の木でつくるスケルトンドミノの家』(2014年平凡社)の前編の冒頭で、

「日本の木の建築は、丸太を地面に掘立てて誕生しました。縄文の遺跡から、直径20cmの栗の柱が出土し、…柱と柱の間を横に架け渡した梁や桁と、柱が交わる仕口は縄で結(ゆ)い番(つが)えられて…」

と、木造建築の原初の姿が「軸の空間」と「柔構造」であったことを語ります。そして、

「『法隆寺』では、基壇から立ち上がるエンタシスの太い丸柱が、大斗を支点に屋根を支え、屋根の重さで安定が保たれていました。白鳳時代には,梁や桁に長押が加わり、その幅が大きくなるにつれて、手斧(ちょうな)や槍鉋(やりがんな)で加工された丸柱は細身になっていきます。…『藤原京』『平城京』『東大寺』『平安京』と150年間絶え間なく続いた土木建設や、新羅遠征の軍事用の木造船など、木材の確保のために畿内の山林の伐採が拡大され、すでに木材の枯渇が始まりました」

と、建築資材を供給する山林の社会的背景を述べます。

太い材を手に入れることが難しい状況のなか、源平の争乱で焼失した『東大寺』の再建にあたった重源は、礎石の上の柱の転倒を防ぐために、南宋から移入した「貫」によって「柔構造化」を図ります。…重源は、直径1.5m、長さ30mの太くて長い木の調達を、遠く周防国(山口県)の佐波川まで求めたのみならず、貫と肘木を同じ寸法にするなど独自の工夫を加え、経済的で安全な建築を目指し、技術の合理化を重ねていったのです」

と、重源上人の建築家としてのミッションを語ります。時代は巡り、

「禅寺院の柱は細く、長さも短くなってしまうことから、内法貫などで固められた「軸組」と、直交する貫板で束を固めた「小屋組み」とを分けて連係させ、木材の量を少なくし、柱は「軸」の印象を強くします。…さらなる枯渇から、家の仕上げは、板壁から土壁へ、板敷きから畳敷きへと変化して、夏は住みにくいものとなります。暑さをしのぐために襖や明かり障子などの建具が発達し、その受け手となる角柱や鴨居が普及していき、日本独自の建築文化「引き戸」が育まれていったのです」

と、日本の建築の構造と意匠のプロセスを述べます。さらに時代を経て、

「格式ある「書院」が生まれ、そのスタイルは明治時代から昭和初期まで、日本の庶民の住まいとして引き継がれます。柱が数段細くなった『桂離宮』が、日本の侘び寂びの表現として高く評価されたことから「数寄屋」は様式的な美として注目されがちですが、木材が枯渇している中で「安全な建築」をつくるために、当時の人たちが技術の工夫に工夫を重ねた結果であったことを忘れてはなりません」

と、先達の技術者たちのチャレンジ精神と美意識を賛辞します。そして日本建築史の中で見落とされがちな民家の独自の構法に言及します。

「桃山時代、城郭の建設などで培われていた家大工の技術は、太い松の鴨居の小口が欅の柱にめり込みを起こさせて地震や強風に粘り強く耐えて転倒を防ぐ「差し鴨居」という木造ならではの仕口を創意工夫します」

黒川が、この「差し鴨居」からヒントを得て、それを現代の構法とするべく開発と実践を重ねたのが、後編に記した『スケルトンドミノ』です。それはさておき、日本の戦後の住宅政策について、

「木材や大工が不足する中、大量の住宅が急速に必要だった1950年に「建築基準法」ができ、「筋交いで地震や台風に耐える壁構造」の木造住宅の工法が、なぜか「在来工法」と呼ばれて登場します。1959年に伊勢湾台風が襲来し、木造住宅は大きな被害を受けました。しかしその後20年間、木造建築の研究が行われることはありませんでした」

と、当時の専門家の姿勢に疑問を投げ掛けます。続く経済成長期時代の住宅政策について、

「1960~70年代、外国の木材の輸入が自由化され、アメリカ・カナダの木造先進国は、材の寸法が2×4インチから「ツーバイフォー」と呼ばれる壁工法とセットで輸出をしました。…やがて大工の後継者不足が深刻になり、「プレカット化やパネル化」がなされると、ヨーロッパやオセアニアも加わって、今度は日本の(戦後の枯渇時代の苦肉の策の細い材による)「在来工法」に合わせた寸法に加工をして輸出を拡大します。…1995年の阪神淡路大震災で多くに家が倒壊したことから、さらに「壁」の量をふやすことがきまりになりました。…このままでは日本人が山と共に育んできた「木の文化」は失われてしまうでしょう」

と、日本の木造建築文化の消滅に警鐘をならして前編を結んでいます。

日本の木造建築は細い材でつくられていた」という誤解は、こうした細い柱を美とする「数寄屋建築」の情緒的評価や、細い柱を乱立させて面とする「在来工法」の表象的理解から生じたのかもしれません。「パリ万博に丸太が展示された」ことから、黒川のスタディの原点「日本の木造建築は太い材でつくられていた」をブリコラージュすることとなりました。

件のテレビ番組で、「「皮剥ぎ丸太」を送ったところ、「皮剥ぎ前の丸太」が求められ、再送した」というプレゼンターの言葉が気になり、パリ万博をネットで調べてみました。寺本敬子氏の「1867年パリ万国博覧会における『日本』」という論文を拝読し、19 世紀フランスの美術批評家エルネスト・シェノーの下記の文言(要約)に行き当たりました。

「日本の美的で独創的なスタイルは、「第一に物の形と用途、第二に物の構成する形態と表面の装飾、第三に物の形態と材質」といった三つの要素の調和が、日本の美的で独創的なスタイルをもたらし、とりわけそれらのスタイルをもたらすのは日本人の「自然」の解釈である」

日本人の創作の美の本質を19世紀の仏人が看破したことが、フランス芸術におけるジャポニズムの真意であることを知りました。

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