ハイテクノのハイブリッドな集積

ハイテクノのハイブリッドな集積

『建築のハイテック・スタイル』(鹿島出版会1987)をお読みになった小宮山陽介氏が、「黒川哲郎ら11人の論者によるハイテック論」とツイートしてくださったので、ハードカバーになる前の『SD』誌1985年1月号「ハイテック・スタイル」を開いてみました。35年も前の事象にあっての、黒川の論の展開に戸惑いを覚えつつ読み進めると、

「……私にとっての木の利用は、たんなる自然回帰ではない。それをいかにうまく使うか、いかにハイブリッドにして使うかに関心がある。だから住宅をすべて木で作ろうとか、鉄とガラスに置き換えようとも思わない。それが私にとってのハイテクであり、ハイテックである」

という文言が飛び込んできました。論の冒頭で、

「かつて、唯一建築家が、アートへテクニカルなアプローチをしていた。今日、すべての芸術家が、アートへテクニカルなアプローチをしている」

また、中段で、

「現代はデザインの時代であり、人と物が手を結ぶことを目的にその時代は始まった。建築はその先駆けであったし、また依然として本流であるべきものである」

と、建築が先天的に持っていた、否持つべき先導性を述べています。

ハイテックは、Kron & Slesinが編んだ『HIGH−TECH』で知られるようにhigh artとtechnologyの合成語である。それは一つのスタイルで、cheap chicあるいはcheap valuableな生活感覚の表現であり、比較的簡易な転用が中心といえる。……日本でのハイテックの舞台の多くは、商業建築かそのインテリアにおいてであり、素材・加工に本質的に結びついた技術というより、工業の代わりに手工芸によってつくられたハイテックが主流である。……いうなればテクノロマンであり、それこそハイアートとしてのテクノロジーであろう。……ハイテックには、例え疑似工業的であっても、むしろだからこそ、後期機能主義の本質があるのではないかとさえ思う。つまり無意識のハイブリッド、すなわち工業と手工業、機械と職人という2種類の技術がそこに寄りあっている。……ハイテックと似た言葉にハイテクがある。似ているだけでなくしばしば混用されるが、それはhigh technology、つまりハイテクノと略されるべきであろう。高度技術という訳では、自然の素材や人間の技が相当するであろうローテクと呼ばれる技術は程度の低い技術となってしまう。しかし、今日、むしろ後者の方に次元の高さを感じるからこうした分け方そのものが技術に対する視点の遅れといえよう。ハイローと対比的にとらえられている概念は、本来一つの次元のもので、建築の中ではハイブリッドされて存在すべきものであろう」

として、当時竣工した『山本邸』について、

「プロダクトしたサッシは、木とスチールとプラスチックのコンビネーションである。ガラスを支え風圧を受ける内側は木としていて、結露にも具合がよい。しかし外側はビルのカーテンウォールのように、ガラスをできるだけ前に押し出すためにスチールのフラットバーを押し縁にし、その片引き戸が、閉めると嵌殺し部分と同面に納まる機構は、摩擦の極端に小さい最先端の高分子量ポリエチレンとwpcを使っている。……この住宅の周りの和風やコロニアルスタイルの手作り風の家々は、サッシや手すりなどほとんどすべてが工業製品でできている。ハイテクノハイブリッド集積である『山本邸』は、先述のサッシを含めほとんど現場で職人の高度な手技によってつくられている。

ハイテックハイテクというよりも、ハイブリッドなものへと志向する私にとって、少しずつ輪郭がみえてきたような気がする」

と結んでいます。

小宮山陽介氏が、巻末の「ハイテック辞典」に触れていらしたので、めくってみると、「グリッド」と「ユニット」の項にも出筆していました。

「日本では古くから畳の寸法を基準としたグリッド・プランニングをもっていた。それはプランと構造の関係のみにととどまらず、プロポーションなど美的な基準や、他のエレメント、建具や壁などの受け手、つまり架台となっている。これは日本の建築が、軸組を基準とした構造、平面、美学、工法のそれぞれにおいて座標を共有していたことを示している」

ユニットは、それ自身がすでに全体であるのに、全体性や完結性の高い部材としての意味が強く、キットやセット、あるいはコンポーネントによって組み上げられたクローズしたシステムといえよう。しかし出来上がったユニットは建築の全体のシステムにおいてはオープンな部品となりえるように思う」

ほぼ10年の後の1993年、「スケルトンログ=皮剥ぎ丸太を用いたトラス架構構法」の処女作『置戸営林署庁舎』が竣工します。

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